『つかふ』を徹底考察した、鷲田清一ワールド全開の哲学エッセイ!

「つかふ」が奏でる思考の連鎖

「つかふ」をもういちどわたしたちの暮らしにたぐり寄せる。

「つかう」という言葉の様相をさまざまな観点から考え抜いた一冊。

道具をつかう、 出汁につかう、 楽器をつかう・・・・・・、 同じ「つかう」でも、 その意味はさまざま。 この単語を契機に、 意味を探り、 使われ方の変遷を辿り、

哲学はもちろん、 民俗学、 芸術学、 料理本まで関係書物を渉猟し、 考えを深めていきます。

著者は、 2015年4月から朝日新聞の朝刊に「折々のことば」を連載中の、 現代哲学の第一人者である鷲田清一氏。

«「つかふ」という語にはさまざまな表記がある。 「使ふ」だけではなく、 「仕ふ」もあれば「遣ふ」というものもある。 「仕ふ」はだれかに仕えるということ、

奉公や奉仕といった意味だし、 「遣ふ」は「遣わす」というふうに他動詞として用いることが多いが、 要するにだれかを自分の名代として送ること、

つまりは「遣(や)る」である。 いずれも人を「つかふ」ことでありながら、 他者を「道具」や「手段」として使うこと以上の意味をもつ。

いつごろからだろうか、 「人を使う」「人の体を使う」といった言い回しに、 わたしたちはつい眉をひそめるようになった。 人を物のように扱うそのふるまいを、

「無礼」とか「人権侵害」だと受け止めるようになった。 それこそ「人をこき使う」とか「人使いが荒い」といったふうに。

「つかふ」という語が妙にやせ細ってきたのである。

〈中略〉

笑いの充満する《応援》の場で「使う」「使われる」という語がにこやかに行き交う。 そこには、 使用する者が使用させる者を(おのれの利のために)手段として用いる、

簒奪する、 搾取するといった一方向の「利用」ではない、 相互の応じあい、 支えあいが屈託なくいとなまれている。 単方向にやせ細ったのではない、

膨らみのある双方向の関係。 そのような広やかな「つかふ」をもういちどわたしたちの暮らしにたぐり寄せたい。 そんな思いで、

わたしはこの論攷(ろんこう)を書きついだ。 »

(本書「はじめに 使い、 使われて」より)

本書では、 「つかう」を介して人はどのように、 ひとと、 社会と、 世界と拘わっているのかを考察。 ひとをつかうから始まり、 道具の使用、 民芸での意味の変遷、

多種多様な身体用法、 武道でのかけひき、 保育・介護の場面での展開、 ペットとのつきあい、 ひとと楽器の関係など具体的な場に即して、 徹底的に考え抜いた、

鷲田ワールド全開の哲学エッセイです。

«人は物だけでなく他の人も使うが、 それは簒奪や搾取ばかりではない。 おんぶしてもらったり、 凭れさせてもらったりもする。 人びとはたがいのそうした深い依存、

深い交感から身をもぎ離して、 それらにじかに触れることを怯えるようにさえなっている。 いってみれば、 存在の《萎縮》である。 »

(本書「おわりに」より)

カバー写真と文中には、 現代写真の先端で作品を発表し続ける、 ヴォルフガング・ティルマンスの写真を採用。 アートにも親和性の高い一冊です。

〈目次〉

はじめに 使い、 使われて

I 「つかふ」の原型

II 技倆――《用の美》から《器用仕事》へ

III 使用の過剰――「使える」ということ

IV 「つかふ」の諸相(スケッチ)

V 使用の両極

おわりに

あどがき

『つかふ

使用論ノート』

著/鷲田清一

定価:本体2000円+税

判型/頁:4-6/262頁

ISBN978-4-09-388805-9

小学館より発売中(1/14発売)

本書の紹介ページはこちらです↓↓↓

https://www.shogakukan.co.jp/books/09388805

【著者プロフィール】

鷲田清一(わしだ・きよかず)

1949年、 京都生まれ。 京都大学大学院文学研究科(哲学)博士課程修了。 大阪大学教授、 同総長、 京都市立芸術大学理事長・学長等を経て、 現在、

せんだいメディアテーク館長、 サントリー文化財団副理事長。 主な著書に『モードの迷宮』(サントリー学芸賞)、 『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、

『「ぐずぐず」の理由』(読売文学賞)など。